浅利慶太さんが死去
本記事の画像は『グッド!モーニング』の画像をもとに再構成しております。
劇団四季創設メンバーである浅利慶太さんが2018年7月13日に死去されました。
85歳。
ご冥福をお祈りいたします。
2017年に倒れるまで演出家を務めあげ、まさに芝居と共に生きた人生を送られました。
この記事では、浅利慶太さんの功績について尊敬を込めまとめました。
劇団四季の創立
浅利さんは、戦後間もない高校生のころに芝居と出逢いました。
高校1年で1か月裏方をしたときから、芝居から離れられなくなったそうです。
そして慶應義塾大学在学中の1953年に、仲間たちと劇団四季を創立します。
日本に演劇の革命を起こそうと、フランス革命の記念日である7月14日に創立したそうです。
この志の高さたるや。
それからは劇団四季のほぼ全ての作品のプロデュースと演出を手掛けました。
ロングラン公演『キャッツ』の成功
1960年代から各地で公演を行い、東京以外でもお芝居が観られるようにしました。
ところが1970年代からチケットの売り上げが減っていき低迷期があったそうです。
その低迷期を打開した作品が、あの『キャッツ』でした。
創立30周年で挑んだミュージカルです。
過激なコスチュームでコマーシャルに表れ、当時幼かった僕は「怖い!」と思ってしまいましたっけ(^^;;
ミュージカル『キャッツ』は日本で初めてのロングラン公演を成功させた作品です。
キャッツの専用劇場がつくられ、東京で1年間、大阪で13カ月のロングラン公演を行い、その後全国160都市に展開していきました。
もはや社会現象になったと言っても過言ではないでしょう。
俳優を一つの役に固定せず、様々な役を演じさせる配役のシステムも確立させました。
この柔軟なシステムで、ロングラン公演を可能にしたとも言われています。
政界にも広い人脈
30年以上もの間、中曽根元総理のブレーンだったことも有名です。
1983年、初来日した米レーガン元大統領との「日の出山荘会談」を演出しました。
「日の出山荘」は中曽根氏のかつての別荘でした。
迎賓館よりひなびた山荘のほうがいい
と提案。
蓑や笠、ほら貝を配置して、日本の古式ゆかしい雰囲気づくりをしました。
日米貿易摩擦の真っただ中で、あえてお揃いのちゃんちゃんこを着て、いわゆる有名な「ロン・ヤス関係」を演出。
こうした演劇的な演出によって「親密さ」を創り出すことで、反発しあうよりも話し合いで解決する糸口をつくったことは、日本の政治史上でも稀に見ることだと思います。
小泉氏がやっていたような「劇場型」とは全く異なる、別格のものだという認識があります。
長野冬季五輪の総合演出
1998年の長野冬季五輪では開会式と閉会式の総合演出を手掛けました。
善光寺の鐘の音を合図にスタートし、御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱の曙の土俵入りといった、日本文化を前面にアピールする演出が光っていたと思います。
最終聖火ランナーを伊藤みどりさんがスケーティングでされたことも記憶しています。
1990年代からの大躍進
海外作品のミュージカル化の他に、「昭和の歴史三部作」などオリジナル作品を手掛けました。
特に『ライオンキング』は2018年現在もロングラン公演が継続しており、日本演劇最多のロングラン公演回数となっています。
東京以外の、大阪、名古屋、札幌などの都市にも専用の劇場を建設し日本でミュージカルを定着させました。
汐留にライオンキングのシアターができたときはなかなか衝撃的だったことを覚えています。
1991年からの『李香蘭』です。
1998年からの『ライオンキング』です。
2000年からの『夢から醒めた夢』
名優の皆さんの浅利さんへの想い
日本の名優で劇団四季出身者は多いです。
その中の鹿賀丈史さん、市村正親さん、演出助手を務めていた石坂浩二さんの言葉です。
一から育てていただいて、感謝の気持ちでいっぱいですね
浅利さんのおかげで俳優という職業をしっかりやらせてもらっている
「舞台のうえでは本当にここでしぬかもしれないと思ってやりなさい」という声が響いてきます
まとめ
2014年には劇団四季の代表職を退きましたが、演出は続けていました。
まさに生涯演出家でした。
2017年に体調を壊し、2018年7月13日に悪性リンパ腫で亡くなりました。
2015年のインタビューで発言されたこの「想い」には非常に共感するものがありました。
芝居やるからやってるやつは食えなくてもいいなんてとんでもない話
舞台を一生懸命やってくださる俳優さん達が何とか舞台でご飯を食べられるようにしなきゃダメです
そういうふうに作っていかなきゃダメです
芝居に、役者に厳しい面だけではなく、芝居でちゃんと食っていけることを目指したことは、日本演劇界にとって非常に大きく貢献されたと感じます。
友人に多くの役者がおりますが、下北沢や新宿、荻窪の中小の劇場で演じる役者さんたちです。
彼らはまだ、アルバイトをして生計をたてています。
役者では食っていくというのはまだまだ難しいのが現状です。
それでも、浅利さんが芝居で、役者で食っていくこともできるんだと実践し、世間の認知度を高めてくれたことの価値は大きいはず。
そこを目標に演技を磨くこともできるようになりました。
劇団四季がビジネスとして成立せず、もしいつまでも役者では食えない状況のままだったなら、今舞台やテレビ、映画で活躍している俳優さんが途中で挫折してしまい、存在していなかった可能性だってありえます。
演劇界を変えた革命家としても、浅利慶太さんの功績は非常に大きかったでしょう。
本当にお疲れ様でした。
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