石川県にある能登半島。
その突端に珠洲市があります。
能登半島は山間で河川が短く農業に向かない土地でしたが、その珠洲に水をもたらしているのがため池と用水。
その中でも代表的なため池が雁ノ池です。
この雁ノ池とそこから延びる用水について知る前に、まずは「加賀の水路」について知っておくと良いと思います。
金沢市の用水
image:www.tvk.ne.jp
石川県を訪れたひとならその特徴として気が付くのが、用水路の多さです。
「加賀の水路」と呼ばれ、金沢市内には55もの用水があるということです。
すごいですね。
辰巳用水、鞍月用水、大野庄用水、長坂用水といった用水路がとても有名です。
他にも泉用水、中村高畠用水、大豆田用水、樋俣(ひまた)用水、中島用水、小橋用水、三社用水、木曳川用水、柳沢用水、河原市用水などが、市内を網の目のように流れています。
これらの用水路の総延長は150キロにもなり、金沢から珠洲市までの距離と同じくらいの距離です。
その多くは暗渠(あんきょ)になっていたそうです。
暗渠というのは、水路にふたをして地下化してしまうことで、水路として活用されなくなっているものも含まれます。
東京は渋谷の「渋谷川」が暗渠になっていることは、テレビなどでも扱われているのであまりにも有名です。
1996年に、金沢市は「用水保全条例」を制定し、いったん暗渠とした用水路を再び開渠(かいきょ)しました。
開渠とはすなわち、閉じたふたを開けるということですね。
街の景観をよくするのに一役買っている用水路。
文化的遺産を見直し、大切に守っていこうという決意は素晴らしいですね。
辰巳用水とは?
image:金沢市
辰巳用水は石川県金沢市の文化遺産と言えるもので、全長にして12キロメートルある手掘りの用水路です。
長野県の五郎兵衛新田用水、江戸の玉川上水、芦ノ湖から導水した箱根用水と並んで「日本四大用水」の一つに数えられています。
用水というのは、農業の灌漑用や、工業や水道など人間の経済活動に用いるための水のことで、用水路はその水を人が使うところまで引いてくるために人工的に作られたものです。
辰巳用水は長野県内を流れる信濃川水系の一級河川である犀川の上流で取水し、約4キロの隧道や開水路を伝って日本三大名園の兼六園まで引水しています。
金沢市の中心部から見て東南の方角にあることからそう呼ばれるようになったといいます。
辰巳というのは干支で東南の方向を指したものです。
寛永8年(1631年)に金沢城を消失した大火事「法船寺焼き」をきっかけに作られたと言われており、積極的に新田開発などにも活用されたと言われています。
image:トリップアドバイザー
現在としても極めて高い測量技術が用いられています。
その特徴は伏越という、逆サイフォンの手法を取り入れていることです。
簡単にいえば、水位差と水圧を利用して水を吹きあげさせる方法です。
兼六園の噴水に同じ仕組みが使われています。
園内で取水している霞ヶ池よりも低い位置に噴水を作ることで、自然の水圧で水が噴き出す仕組みです。
出典:『石川県土地改良史』(石川県)
この逆サイフォンの手法は全国各地で活用されています。
例えば琵琶湖疏水と白川が交差するところでも使われている技術です。
出典:雪丸の京都散歩2
辰巳用水は、板屋兵四郎という小松の町人に設計、建設を取り仕切らせたそうで、わずか1年で建設されたと言われています。
当時は巨大な重機もなく驚異的なスピードです。
そして今でも現役で使い続けられているというところが、設計・建築技術の高さをうかがわせますね。
ただ1年で仕上げるにはそれ相応の多くの犠牲が伴ったとも言われており、多くの技術者や手掘り作業に関わった農民たちの命がここに宿っていると言えましょう。
今でも残されているのは戦争で焼けたり、大震災で破壊されなかったことも幸いしています。
先人の魂が残されていたことは本当に奇跡です。
これからも市民生活に有効に活用しながら、末永く残していくべき遺産ですね。
珠洲市の用水を供給する「雁ノ池」
image:水辺遍路 – はてなブログ
石川県の北にある能登半島は、河川が短く平坦地が少ないなど農業には厳しい条件の土地でした。
そこで祖先は多くの用水路を築いていきました。
水の確保は米の生育に直結し、干ばつなどで水が不足すると隣村同士が衝突する原因にもなりました。
そこで用水の管理人を置くようになったと言われています。
珠洲市といえば、石川県の能登半島の突端に位置する市です。
やはり山間部、かつ河川が短く農業用水や飲料水をひく必要があり多くの用水が作られ、守られてきました。
珠洲市北東の三崎町にあり、寺家、粟津、森腰、宇治、引砂、内方、高波の7つの集落の農地を潤しているのが「雁ノ池」です。
多くのため池がある珠洲市の中でも、雁ノ池は代表するものです。
雁ノ池は慶応元年(1865年)に着工され、慶応3年に完成したとされます。
池田茂兵衛が陣頭指揮をとり、施工計画から人夫の割り振りまでを考え、主に地元の農民を使って造成しました。
そこから各集落に用水路をひき、水を流しています。
山を越えて水を運ぶには、やはり逆サイフォンの手法が活かされているでしょう。
寛永8年(1631年)に高度な技術で作られたのが辰巳用水でしたが、雁ノ池を造成する200年近くも前からあった高度な設計・建築技術は、そのまま雁ノ池の造成にも活かされたとみて間違いありません。
今から150年以上前に作られたため池がそのまま生活に欠かせない水を供給し続けているというのも、まことに驚異的な技術力・耐久力と言えるかもしれませんね。
しかしこれも辰巳用水などと同じことですが、当時多くの農民がその造成に駆り出され、過酷な手掘りを行い、命を落とした方もおられただろうと思います。
1日平均40~50名の人夫が工事に関わったと言われています。
いったいこのうち何名が大怪我をしたり、命を落としたことでしょう。
本当に、大変な苦労があったと思います。
雁ノ池の名前の由来は、関係者が出来上がった池を眺めつつ酒盛りを宴じていた時に飛び去った雁をみて思いついたといわれているそうですが…末端の労働者はそんな楽観的な状況ではなかったものと推察します。
私たちはそうした先人たちの血と汗と命の上に生きていることを感謝をして生きないとなぁ…と想いを新たにしました。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
関連記事を紹介させていただきます。
高梁川【支流】のはずの小田川が越水破堤した原因は?線状降水帯による集中豪雨で倉敷市真備町も飲み込んだ平成30年7月豪雨。堤防決壊のハザードマップは要確認。
コメントを書く